転売に関する考察

 

転売は分配の問題と結びつけて考えることができる。

例えば、書籍は都心部の大型書店から優先的に配本されていくという構造がある。

都心からの距離が遠ければ遠いほど、新刊の書籍は遅れて書店に並び、地方に至っては並ばないことすらざらにあるだろう。

発行部数の少ない専門書においてそれは顕著である。

 

 

思うに、転売はこういった非対照性のある場によって起こっていくように見える。

田舎では絶対に買えない本が都心では簡単に手に入る。

つまり本を転売する人間は必然的に都心部にいることが有利となる。

 

 

ここで、人間である以上「それは不平等ではないのか、どうにかならないのか」という思いが湧いてくる。

この点について少し考えてみたが、結局のところ、経済活動が合法的かつ合理的に行われているのであれば外部からの干渉、つまり法的な環境整備で転売を撲滅させていくのはいかがなものか、と思うに至った。

 

もっと細かい点を言えば、その制度設計によって消費される労力や時間、エネルギーはどういったかたちで還元されるのか、ということである。この問題について考えることは大切だが、転売という行為ではなく、転売の温床となっている場について考えるべきである。転売という行為に関しては、その上位概念である道徳や倫理に席を譲ってやれば良いだけの話ではないか。

 

分配は正義か?という問題につながるわけであるが、例え格差があるにせよ、生まれた場所までは選べないのである以上、そこに文句を垂らすのはやや幼稚に見えるうえ、その土地でしかできないことや、その不利な場で何をすべきかという問いかけを行うことはとても大切なように思われる。

 

 

もっと広くとらえると、結局のところ運命に対する態度が問われているのである。

自分の運命をただ恨むだけの態度は著しく自分の人生に対して責任を放棄するようなものである。

置かれた場所で咲きなさいという本があったが、これに通ずるものがあり、やはり固有の特性を活かしきることを考えるのがベストなように思われたのであった。

記憶と物語性、ジャーナリズムについて

 

 

なぜこのような記事を書こうと思ったのかというと、日々垂れ流しにされるネットニュースの無意味さについて思うところがあったからである。

例えば今から3日前にどんなニュースがあったのか、覚えている人は少ない。それはちょうど、3日前の昼御飯は何を食べたのかという問いと似ている。

 

 

食事は定期的にしなければ死に直結するが、果たしてニュースはどうなのだろうか。

食事は本質的に生理的欲求だが、ニュースは生理的欲求から要請されるものではない。

そして記憶の観点から思うことがある。

ニュースのストーリー性がいまいち足りないのである。

 

 

記憶と学習について、経験からすれば両者ともストーリー性と親和性がある。

記憶力チャンピオンの技術について読んだことがあったが、あれはどうやらストーリーが基盤となっているようである。事実の羅列ではなく、事実が物語として融解される。それを飲み込むイメージである。

 

 

記憶の定着としては、ジャーナリズムの場合、やはり書物に限るだろう。

事実が羅列されたところで、それは実態とはかけ離れているだろうし、記憶の定着にも結び付かない。ただ消費されるばかりである。

にもかかわらず、おそらく書物よりもネットニュースのほうが利便性の観点で優先されてしまうであろう。

 

人は何を欲しているのか。

よくよく考えてみれば、実は何も欲していないのではないだろうか。 

言葉の磨耗性

 

 

「死ぬ気で頑張ります」

この言葉を、どれだけの人が今もなお本気で信じられるだろうか。

おそらくあまりいない。

この言葉は「自分はダメ人間」であることを裏付ける紋切り型となっている。

 

 

何故か。

言葉の力が磨り減ってしまっているのである。

死語とはまた微妙に違うが、字義的に読めなくなってしまっている状況を踏まえれば別の意味でこの言葉は死語となっている。

磨耗された死語。

 

 

社会は新しい言葉を必要とする。

意味が字義的に機能する言葉を必要とする。

具体性を必要とする。

 

 

しっかりと意味を持つ言葉を持ちたい。

だからこそ磨り減った言葉はなるべく避けたい。